ブログ紹介

回復の道を歩かれている方たちのブログを
ご本人達の了承を頂いて紹介させて頂きます。


『アルコール依存症からの回復は、不思議な力を信じた時から始まった 〜soul to soul〜』
http://alcoholic1963.blog121.fc2.com/blog-date-20170919.html


3分の1世紀、この道を歩かれている先行く仲間です。
回復のプログラム、仕事、ご家庭、そして駄洒落(?)に奔走されています。
後発の私としては、やはり視線の彼方に
生身で歩いている人の背中が見えている、ということは大きいです。


アルコールを手放すまで2️⃣

当時はアルコール依存症という言葉より、アルコール中毒、アル中という言葉の方が知られていて、
そのイメージは、私の中ではドラマか漫画の影響なのか、
腹巻きをした中年のオジさんが道路で一升瓶をラッパ飲みしている、
というものだった。なので、自分とアルコール中毒が結びつかなかった。
だが、禁酒を繰り返している中「私はお酒がやめられないんじゃないか?」と感じたことがあった。
禁酒をしていたある日、
酒屋の前を通りかかった時、酒屋のショーケースの中でキンキンに冷えているであろう日本酒を想像して、脳が激しく揺れるような衝撃が走ったりした。
結局、その時は飲まなくても、すぐにまた飲み出してしまう。


飲みたくなる理由はあったり、無かったり。
嫌いな同僚がチヤホヤされてつまらないから
とか
好きな歌手のライブで感動して、いつまでも感動を引き伸ばしたくて
とか
やっぱり忘年会でたしなむぐらいはいいかも
とか
時には、なんの理由も無いこともあった。


飲酒欲求は、
まるで磁石(私)に鉄(アルコール)がひっついてしまうように逆らいようのない感覚だった。
私にとって禁酒というのは、たとえると、ひっつきそうな磁石と鉄をムリやり離しているだけのガマンだから1ヶ月しか続かないのだった。


それでも、みせかけの生活は、なんとかなってしまっていた。
苦しいのだが、大きな変化も望まないのが私だった。
ある日、魔法のようにこの苦しさから解放されたいとうっすら望んでいるしか
なすすべはなかった。
規則正しく毎日は繰り返されていた。
振り分けの部屋が幸いなのか、災いなのか、相手がいるのかいないのかもわからない同棲生活。そんなアパートと夜中までの労働が当たり前の会社の往復。返しても返しても減らない借金。
私は巨大な収容施設の中を行き来しているような閉塞感に包まれていた。
少しずつ、少しずつ、真綿で首が締まるように状況も悪くなっていた。
ただでさえ少ない友人たちは、私からの電話に冷淡な態度を取るようになっていた。
仕事場では目に見えた遅刻や休んだりはしないようにしていたが、集中力も乏しいのでおそらくリストラが行われていれば候補者の筆頭にいただろう。
感情を押し殺して暮らしているので無表情になり、
上司から「アラコックさん、なんか、コワいんだけど」と言われたりした。
自分では、普通、
フツーのつもりなのに…。


決定的だったのは、一番頼りにしていた宗教上の先輩に見放されたことだった。
ちくしょう、
神も仏もありゃしないよ。
祈ったところで酒もやめられないよ。
ひとりぼっち。
周りには、私を知っている人は何人もいるし
実家にはろくすっぽ帰っていないけれど、両親も健在だというのに
どうして
どうして
こんなにひとりぼっちなんだー
誰か
誰か
誰かー
とてつもない恐怖をはじめて感じた。
孤独感であれほどの恐怖を感じたのは、今のところ、あの時だけである。


再び、私は例のいろいろな相談窓口を紹介する便利帳をめくっていた。
前に電話をかけたJSOには、気恥ずかしい気持ちもあってかけなかった。
ある施設に電話をかけた。


以前の時と違って
私は、これまでのような曖昧な訴えではなくハッキリとこう伝えた。


「お酒のことで悩んでいます。どうか助けてください。」


はじめて自分から自分の口で
私には自分のアルコホリズムをどうすることもできないことを認めた瞬間だった。


翌日、その施設に見学に行った私は、
たまたまメッセージに来ていたAAメンバーを紹介される。


AAって、JSOの人が言っていたあそこの人たちかあ、と思ったが
はじめて出会うAAメンバーは、私が勝手に思い描いていたゾンビのような人ではなく、
活力に満ちた、まるで「普通の」人だった。
私は会社勤めもしているので、施設に通うよりAAに通ってはどうかと勧められた。
私も行く気になっていた。


その日を境に、
一人では何一つ解決できなかった問題が、ドミノ倒しのように解決に向かいだす。


不思議なのは、AAメンバーに出会い、さらにミーティングに参加してワンディのメダルというものをもらったりしているうちに、飲酒欲求が鎮静していったことだった。


AAにはじめて参加しての感じ方は、メンバーによって様々だし
私自身も、何がどうなってそうなるのか、今でもうまく言い表すことは難しい。


ただ、一つだけ言えることは
単なる我慢では、1995年から2017年の現在まで、
私がアルコールから離れられているわけがないということである。


注)
AA(アルコホーリクス・アノニマス)という共同体と文中に出てくる施設は、
別々の団体・機関です。
また、この記事は、
あくまで私個人の見解で、AAやその他施設を代表するものではありません。

アルコールを手放すまで1️⃣

1990年代はじめ。

私は同棲している相手と口をきくことも、顔を合わすことすらなく、暮らしていた。

誰にも言っていない借金の返済もあるので

毎晩夜中まで残業代のつく会社勤めはありがたかったが、

自分から壁を作るので、仕事場での人間関係もうまくいっていなかった。

なんの為にそうして働いているのか虚しくもあり

一日の終わりは、アルコールを飲んで終わらないことには

次の日に越えていけないというのか、

そんな毎日だった。


休みの日だったと思う。

誰かに、この虚しさを聞いてもらいたかった。

まだ携帯電話は無かった頃。友達は出かけていて留守番電話。

手元に、いろいろな相談窓口を紹介している便利帖があったので

あまり深く考えないで、なんとなく

そこに掲載されていたJSO(AA日本ゼネラルサービス)に電話をかけた。


毎日がけだるく、物悲しいとか、訴えた。

ところが、電話に出た中年と思われる男性は

「ここは、アルコールに問題のある人のためのオフィスだから」と冷たい対応。


ケチ!

話くらい聞いてくれたっていいじゃない、と思う私だった。

でも、こんな冷たい人に聞いてもらいたくない、とそそくさと電話を切ろうとすると、

男性は「キミは面白いねー」と言いながら、いろいろ聞き出してくれた。

「でも、毎日お酒飲むんじゃ、誰でも二日酔いだよね。

半年くらい、飲まないで朝起きたら、頭もスッキリして気持ちも良くなるかもね」


それから、

ついでのようにアルコホーリクス・アノニマス(略してAA)という自助グループの説明もしてくれた。その電話に出た人も、アルコール中毒者(当時はこう言っていた)で、その自助グループに参加しているらしい。

「僕たちは、自分たちで会場をセッティングしてやっているんだよ」


へー。

ご苦労様です。

私は勝手にアタマの中で、テーブルをヨロヨロと運んでいる

ゾンビのような人たちを想像した。

そんな所に誰が行きたいもんか!

友達もいるし!

間にあってまーす!


話を聞いてもらったのでお礼を言って、電話を切った。

自助グループなんか、行くわけなかったが

〝半年くらい、飲まないで朝起きたら、頭もスッキリして気持ちも良くなるかもね〟

という言葉には、やってみようかと思わされた。

でも、半年もお酒を飲まないなんて、気が遠くなりそうだった。


とりあえず、禁酒、という貼り紙を部屋に飾った。

禁酒を始めてみたのだ。


しかし、禁酒はせいぜい1か月しか続かなかった。


それから二、三年は、禁酒をしては続かないことを繰り返した。


その後、1995年9月にその自助グループに参加し、人生が変わっていくことになるとは

思ってもみなかった。