アルコールを手放すまで2️⃣

当時はアルコール依存症という言葉より、アルコール中毒、アル中という言葉の方が知られていて、
そのイメージは、私の中ではドラマか漫画の影響なのか、
腹巻きをした中年のオジさんが道路で一升瓶をラッパ飲みしている、
というものだった。なので、自分とアルコール中毒が結びつかなかった。
だが、禁酒を繰り返している中「私はお酒がやめられないんじゃないか?」と感じたことがあった。
禁酒をしていたある日、
酒屋の前を通りかかった時、酒屋のショーケースの中でキンキンに冷えているであろう日本酒を想像して、脳が激しく揺れるような衝撃が走ったりした。
結局、その時は飲まなくても、すぐにまた飲み出してしまう。


飲みたくなる理由はあったり、無かったり。
嫌いな同僚がチヤホヤされてつまらないから
とか
好きな歌手のライブで感動して、いつまでも感動を引き伸ばしたくて
とか
やっぱり忘年会でたしなむぐらいはいいかも
とか
時には、なんの理由も無いこともあった。


飲酒欲求は、
まるで磁石(私)に鉄(アルコール)がひっついてしまうように逆らいようのない感覚だった。
私にとって禁酒というのは、たとえると、ひっつきそうな磁石と鉄をムリやり離しているだけのガマンだから1ヶ月しか続かないのだった。


それでも、みせかけの生活は、なんとかなってしまっていた。
苦しいのだが、大きな変化も望まないのが私だった。
ある日、魔法のようにこの苦しさから解放されたいとうっすら望んでいるしか
なすすべはなかった。
規則正しく毎日は繰り返されていた。
振り分けの部屋が幸いなのか、災いなのか、相手がいるのかいないのかもわからない同棲生活。そんなアパートと夜中までの労働が当たり前の会社の往復。返しても返しても減らない借金。
私は巨大な収容施設の中を行き来しているような閉塞感に包まれていた。
少しずつ、少しずつ、真綿で首が締まるように状況も悪くなっていた。
ただでさえ少ない友人たちは、私からの電話に冷淡な態度を取るようになっていた。
仕事場では目に見えた遅刻や休んだりはしないようにしていたが、集中力も乏しいのでおそらくリストラが行われていれば候補者の筆頭にいただろう。
感情を押し殺して暮らしているので無表情になり、
上司から「アラコックさん、なんか、コワいんだけど」と言われたりした。
自分では、普通、
フツーのつもりなのに…。


決定的だったのは、一番頼りにしていた宗教上の先輩に見放されたことだった。
ちくしょう、
神も仏もありゃしないよ。
祈ったところで酒もやめられないよ。
ひとりぼっち。
周りには、私を知っている人は何人もいるし
実家にはろくすっぽ帰っていないけれど、両親も健在だというのに
どうして
どうして
こんなにひとりぼっちなんだー
誰か
誰か
誰かー
とてつもない恐怖をはじめて感じた。
孤独感であれほどの恐怖を感じたのは、今のところ、あの時だけである。


再び、私は例のいろいろな相談窓口を紹介する便利帳をめくっていた。
前に電話をかけたJSOには、気恥ずかしい気持ちもあってかけなかった。
ある施設に電話をかけた。


以前の時と違って
私は、これまでのような曖昧な訴えではなくハッキリとこう伝えた。


「お酒のことで悩んでいます。どうか助けてください。」


はじめて自分から自分の口で
私には自分のアルコホリズムをどうすることもできないことを認めた瞬間だった。


翌日、その施設に見学に行った私は、
たまたまメッセージに来ていたAAメンバーを紹介される。


AAって、JSOの人が言っていたあそこの人たちかあ、と思ったが
はじめて出会うAAメンバーは、私が勝手に思い描いていたゾンビのような人ではなく、
活力に満ちた、まるで「普通の」人だった。
私は会社勤めもしているので、施設に通うよりAAに通ってはどうかと勧められた。
私も行く気になっていた。


その日を境に、
一人では何一つ解決できなかった問題が、ドミノ倒しのように解決に向かいだす。


不思議なのは、AAメンバーに出会い、さらにミーティングに参加してワンディのメダルというものをもらったりしているうちに、飲酒欲求が鎮静していったことだった。


AAにはじめて参加しての感じ方は、メンバーによって様々だし
私自身も、何がどうなってそうなるのか、今でもうまく言い表すことは難しい。


ただ、一つだけ言えることは
単なる我慢では、1995年から2017年の現在まで、
私がアルコールから離れられているわけがないということである。


注)
AA(アルコホーリクス・アノニマス)という共同体と文中に出てくる施設は、
別々の団体・機関です。
また、この記事は、
あくまで私個人の見解で、AAやその他施設を代表するものではありません。